ナタリー・ウルスが山本耀司を語る

ナタリー・ウルスは、ヨウジヤマモト社のプレスとして18年間活躍しました。
今回は、ナタリー・ウルスが山本耀司について語ります。

 

ナタリー・ウルス

ヨウジヤマモト422 ナタリー・ウルスナタリー・ウルス
「FASHION NEWS」より

 

ナタリー・ウルスはパリの大学で3年間日本語を勉強した後、東京へ渡りヨウジヤマモト社に入社しました。

その後パリへ戻り、ヨーロッパでのショーや広告キャンペーンを取り仕切るPRを担当しました。

1992年にはコミュニケーション・ディレクターとして、イレーヌ・シルヴァーニとともにヴィジュアル製作を行いました。

2001年以降は、写真集やヨーロッパでの展示会に携わりました。

2005年に「オン コンサルティング」を設立しました。

ナタリー・ウルスのインタビューが載っている雑誌は、

  • ファッションニュース 161号3月号増刊
    2011年3月1日発行
    発行所 株式会社INFASパブリケーションズ

です。

それでは、以下に引用します。

1987年から2005年まで18年に渡り、ナタリー・ウルスは、ヨウジヤマモト社のプレスとして活躍した。

「A MAGAZINE #2」のキュレーターに山本耀司を推薦するなど、デザイナーのクリエーションを理解し、支えてきたひとりだ。

ヨウジ社退社後、2005年に自身の会社を立ち上げ、ファッションプロジェクトや制作物、コミュニケーションPRを手掛ける彼女にインタビューした。

 

本当に素晴らしくユニークな経験

ヨウジヤマモト423 ヨウジヤマモト 1987年秋冬
「FASHION NEWS」より

 

編集部

山本耀司のクリエーションを初めて知ったのはいつですか?

ナタリー・ウルス

1986年でした。
ボストンの伝説的なセレクトショップのバイヤーであるアラン・ビルゼリアンとメンズのショーを見に行った時のことです。
白いシャツに大きなフラワープリント、素晴らしいキャスティング。
突如、私の前に新しい世界が広がったようなとても美しいコレクションでした。

編集部

「ヨウジヤマモト」社の仕事に携わるようになったきっかけを教えてください。

ナタリー・ウルス

耀司の友人でもあったアランに、彼本人と当時ヨウジヤマモト社のCEOだった林五一氏を紹介していただきました。
その当時、私は日本語を勉強していて、日本でのインターンシップを探していました。
ビザを取得するまでの6ヶ月はパリで働き、1987年から2年間、日本のヨウジ社で働きました。
その後パリへ戻り2005年まで勤めました。
仕事内容は、パリ、ロンドン、ニューヨークのプレスオフィスとのコーディネート、すべてを合わせると18年間仕事をともにしており、私にとっては第2の家族のようなものです。

編集部

ほかのデザイナーにはない「ヨウジヤマモト」の服の魅力、耀司さん自身の魅力はどこにあると思いますか?
またそれはどのようにあなたに影響を与えていると思いますか?

ナタリー・ウルス

耀司は私の目と魂を開き、まったく別の世界へと導いてくれました。
美しさ、人間性、女性らしさ、愛、嫌悪、すべての感情について疑いの念を持つことを教えてくれました。
あれ以上の人生の修練の場はほかに思いつきません。
当時は、私は完全に彼の影響下にいましたね。
それは本当に素晴らしくユニークな経験でした。
だから、「ヨウジ」の服をまとうと”ただの服”以上のもの、彼のデザインに含まれるものを感じ、とても感情的になれるのです。
それは家族や親友が一緒にいるような感覚で、勇気や愛が与えられ、女性であること、「私」であることを強く感じるのです。

編集部

特に印象的なシーズンについていくつか教えてください。

ナタリー・ウルス

どのショーも特別な思い出があり1シーズンだけを挙げるのは難しいのですが、1987-1988年秋冬の荘厳なピアノの調べにのって重厚なウールで仕立てたルダンゴトはとても素晴らしかった。
1986-1987年秋冬の紺色の折り紙を使ったタンゴのコレクションは、実際のショーではなくビデオで見ましたが、息を呑むようなコレクションでした。
そしてもちろん、1999年春夏のウエディングのコレクション、1999-2000年秋冬のデカダンス、2000-2001年秋冬のエスキモーでしょう。
1995年春夏のソルボンヌ大学で行われた着物コレクションは、素晴らしい絞りが宙に舞っていて、今でも鮮明に印象に残っています。
まるで魔法にかけられたかのようでした。

 

毎回、全く異なったスタイルで表現できる

ヨウジヤマモト424 1999年春夏コレクションヨウジヤマモト 1999年春夏
「FASHION NEWS」より

 

編集部

2004年7月、「A MAGAZINE」の当時の編集者に、キュレーターとして山本耀司を推薦されたそうですね。
そのいきさつを教えてください。

ナタリー・ウルス

フィレンツェのピッティ宮殿近代美術館での展覧会「コスモポンダンス」(2005年1月12日〜3月6日)と、パリ装飾芸術美術館での展示会「ジュスト・デ・ヴェトゥモン(単なる服)」(2005年4月13日〜8月28日)の図録を作る代わりに「A MAGAZINE」を作るべきだと思ったのです。
雑誌がとても好きだったので、編集部に直接交渉をしました。

編集部

その後、2005年から2009年まで「A MAGAZINE」の編集長もされていますね。
各号のキュレーションを務めるデザイナーはどのように決めていたのですか?

ナタリー・ウルス

単純に私が確信を持っていて、憧れるデザイナーにアプローチしました。
実を言うと、交渉した中の数人には断られたこともありました。
彼らは準備ができていなかったのでしょう。
まず「これはあなたの雑誌になる!」と始め、何を感じ、何を表現したいのかを聞き、その夢を実現できるように精一杯努力することを伝えました。

編集部

「A MAGAZINE CURATED BY YOHJI YAMAMOTO」で、あなたが具体的にされたことがあれば教えてください。

ナタリー・ウルス

彼に直接アイデアを提案していきました。
これまで彼が辿ったデザイナー人生と、そこで起こった素晴らしい偶然の巡り合わせが形になったと思います。
本当に多くの、独特で才能のある人々に集まっていただきました。

編集部

長年「ヨウジヤマモト」を見てきて、これまでの彼のクリエイションをどのように思いますか?
変わったと思いますか?

ナタリー・ウルス

もちろん、変わったところもあれば変わっていないところもあると思います。
彼自身が言っているように、同じ歌を毎回違うアレンジで歌うようなことだと思います。
彼のスタイルが独特でいながら非常に美しいのは、毎回、全く異なったスタイルで表現できるという自負があるからだと思います。

 

「クリエイターが山本耀司を語る」は、以下も参考にしてください。