瀬田一郎が山本耀司を語る

ファッションデザイナーの瀬田一郎が語る内容には、生々しさがありました。
読み終わったみなさんは、どんな感想を持つのでしょうか?

 

瀬田一郎

瀬田一郎02瀬田一郎
「FASHION NEWS」より

 

瀬田一郎

  • 1963年 東京都に生まれる
  • 1986年 東京モード学園卒業
         ジャン=ポール・ゴルチエで1年経験
         ヨウジヤマモトに入社
  • 1998年 独立して「シィディア」を設立
  • 1999年 自身のブランド「セタイチロウ」をスタート
  • 2001年 「エンカマニア(ENKAMANIA)」でファイナリスト
  • 2002年 2003年春夏ミラノコレクションに参加(-2005年秋冬)
  • 2005年 アバハウスと新ブランド「シンファ(sinfa)」をスタート
  • 2009年 「トッカ(TOCCA)」の日本企画ブランドディレクターに就任

瀬田一郎のインタビューが載っている雑誌は、

  • ファッションニュース 161号3月号増刊
    2011年3月1日発行
    発行所 株式会社INFASパブリケーションズ

です。

それでは、以下に引用します。

瀬田一郎は、1986年にヨウジヤマモトに入社し、「ヨウジヤマモト プール オム」の生産部に配属される。
その後「Y’s」の企画を経て「ヨウジヤマモト」のブランドチーフとなった。
1998年に独立し、自身のブランド「セタイチロウ」をスタートした彼に、「ヨウジヤマモト」での得がたい経験について語ってもらった。

 

全販売員飛び出し事件

ヨウジヤマモト379 1985年秋冬カタログジャケットとスカート ヨウジヤマモト 1985年秋冬
「Yohji Yamamoto」より
ISBN2-84323-704-1

 

  • ドレープ・ジャケットとロングスカート
    ヨウジヤマモト
    1985年秋冬
    赤いウール生地のジャケット

    黒いウール生地のスカート
    撮影:Eddy Kohll

編集部

瀬田さんが「ヨウジヤマモト」にいた90年代、オートクチュールを始めるという噂がありました。

瀬田一郎

ちょうど、山本さんが、売ることと作ることのギャップに悩まされた時期でした。
僕が「Y’s」のブランドチーフをしていた頃で、僕も含めて悩んでいました。
会社からは「Y’s」に大きな売り上げが期待できるモノ作りを強く求められていたからです。

編集部

具体的にいつのことですか?

瀬田一郎

1993年頃でしたか。
その頃「Y’s」は着実に売り上げを伸ばしていたのですが、さらに伸ばすためにやり方を変えました。
シーズンごとにまったく新しくデザインしたコレクションと、ドレスやジャケットなどの売れた商品の素材や縫製仕様、分量を変え、少しモデルチェンジしたものも提案するようにしました。
その結果、売り上げは確実に伸びた。
でも山本さんは、そのことを知らなかった。
売れ筋としてアレンジされた商品は展示会に出さずに、店頭に直接供給していたからです。
そしてある時、山本さんにバレて怒りを買い、”全販売員飛び出し事件”が起きました。
「Y’s」を全店休みにして販売員を全員アトリエに呼び出した。
「お前らそんなもので売り上げを伸ばしたいのか?俺たちは売れるものを作るんじゃない、作っているものを売らなきゃいけないんだ、そういうプライドを持って売っているんだろ?」と山本さんが全販売員に投げかけた。
その結果、「売るためだけの商売はしたくない」という結論になり、僕の立場は完全になくなりました(笑)。
その事件を受けて、僕も売り上げを伸ばすところまで伸ばした後だったので、「これ以上、売り上げを伸ばすことはできません」と山本さんに伝えました。
すると「作ることにもっと集中しろ。売ることなど考えずに素材開発をして、新しいモノを作れ。(シグニチャーラインである)『ファム』に来い」と言われました。
当時の「ファム」のチーフとポジションを交代することになりました。
その時に、「徹底的に作り込むならオートクチュールをやれ」という話になりました。
ちょうど、94-95年秋冬の”着物”コレクションの後で、評価がぐっと上がった時のことでした。

 

時代性を超越した美しさがある

ヨウジヤマモト380 1986年秋冬カタログドレス ヨウジヤマモト 1986年秋冬
「Yohji Yamamoto」より

 

  • 「Effect of scarlet and black」
    長袖のロングシースドレス

    ヨウジヤマモト
    1986年秋冬
    赤いチュールのバッスル

    撮影:パオロ・ロベルシ

編集部

瀬田さんが「ファム」のチーフになったのは、95年春夏の”絞り”からでしょうか?

瀬田一郎

そうです。
着物が2シーズン続きましたが、次は着物の素材感やテクニックで見せようとなった時でした。
素材開発を徹底的にしました。
反物を探しに、様々な産地を駆け回ったのを覚えています。

編集部

「ファム」に移ってからは数字の話は?

瀬田一郎

まったくなかったですね。
素材開発でかなりの金額を使っていたのは耀司さんもご存じでしたが・・・・・。

編集部

「Y’s」と時には売り上げを伸ばせっていう話をしたのに、「ファム」に移って仕入高を押さえろという話はしなかったんですか?

瀬田一郎

しなかったですね。
でも、モノ作りはものすごく厳しかったですね。
そもそも僕は、山本耀司の価値観が好きで入社しました。

編集部

どういう価値観ですか?

瀬田一郎

言葉でうまく説明できないですけど、服に対する価値観でしょうか。
彼の作る服には、時代性を超越した美しさがある。
服そのものが美しいんです。
素材選びや縫製の処理など、山本さんの服作りを吸収しようと思って入社しました。
「ヨウジ」時代、夜は、アトリエで働いていた人全員といっていいほど、終電まで残業していました。
深夜3時にオフィスを出る人や、帰らない人もいました。

編集部

もともとは「ヨウジヤマモト プール オム」の生産部に配属されました。

瀬田一郎

どうしてもデザインや素材の仕事をしたかったので、仕事が終わってから生地の柄や絵型を描いていたら、山本さんがそれを見ていて、「企画やれ」って言ってくれた。
生地を担当して、仕事をすればするほど、自分には知識が足りないと思い知りました。
でも、いろいろと勉強させてもらえて、とても恵まれた環境でした。

 

洋服のしわが見えてくるようになった

ヨウジヤマモト381 1997年春夏カタログスーツ ヨウジヤマモト 1997年春夏
「Yohji Yamamoto」より

 

  • 「Back to the classics」
    黒いウールギャバジンのスーツ

    白いコットンのシャツ
    ヨウジヤマモト
    1997年春夏
    撮影:パオロ・ロベルシ

編集部

「ヨウジ」時代の体験で、今に生かされていることは?

瀬田一郎

なんといってもパターンですね。
山本さんが本当にすごいなと思うのは、たぶん普通のデザイナーの5倍も6倍も洋服を見ていること。
1日8時間の仮縫いを週に2日、普通じゃありえないことです。
その仮縫いにつき合わせてもらって、入社の時には見えなかった洋服の”しわ”が、10年経つと見えてくるようになった。
たくさんの服に触れる機会がないと、ああいう”しわ”は見えてこないんです。
早い判断力も身につきました。
そうなるとリズムよく仕事がはかどるんです。
「ヨウジ」社で鍛えられなきゃできなかったことですね。
悩み始めると、1着見るのに1時間かかっても終わらないこともある。
山本さんのそばで洋服をたくさん見せてもらったからこそだと思います。
とても感謝しています。
あとは、”しつこさ”でしょうか。
「それくらいでいいんじゃない?」というところを突き抜けること。

編集部

「ギリギリじゃないとできない」と耀司さんがおっしゃっていました。

瀬田一郎

よくわかります。
”鬼気迫る”という表現が正しいかわからないけれど、普通に頑張っても間に合わない。
尋常じゃない頑張りと限界を超えた後で勝負するという執念はすごい。

編集部

普通だったら東京でもコーディネイトをするけれど、コーディネイトはパリのアトリエで始まると聞きました。

瀬田一郎

東京でコーディネイトを組むためには、2週間くらいずらさなきゃならない。
僕がいる頃に一度、東京で組んだこともあるんですよ。
ただ、コーディネイトをしている間に「あれ作る、これ作る」と始まっちゃって、収拾がつかなくなる。
ここで終わりだったはずなのに、作り直すから結局同じなんです。
合理的じゃないんだけど、そうせざるをえない。
そんなモノ作りの環境でしたから、限界を超えることを経験しました。
それは「ヨウジ」社に入るまで経験したことがなかった。
ジャン=ポール・ゴルチエで働いていた時にもなかったです。
今の仕事にとても生かされています。

 

「クリエイターが山本耀司を語る」は、以下も参考にしてください。