山本耀司インタビュー by 佐山一郎 最終回

「山本耀司インタビュー by 佐山一郎」は、今回が最終回となりました。
山本耀司が答えた最後の段落は、日本人全員に読んでもらいたい気分になりました。

 

自分の髭を切りかねない

ヨウジヤマモト404 1986年秋冬カタログ ニック・ナイトドレス ヨウジヤマモト 1986年秋冬
「Yohji Yamamoto」より
ISBN2-84323-704-1

 

「デザインと人 25 interviews by 佐山一郎」(ISBN978-4-12-390166-6)から、山本耀司へのインタビューを引用します。

佐山一郎

ご自身の鋏(はさみ)へのこだわりは?

山本耀司

自分が衰えたためか、こだわりが薄くなってきちゃいましたけど、「鋏またぐな」「反物またぐな」とか言ってましたから。
・・・・・言ってましたねえ、怒ってましたねえ、随分。
「刃と刃が触れ合う鋏には自分の癖があるから、他人のは絶対に借りない」と先頭に立って言ってました(2)。
最近は、ちょっとパタンナーの借りて、自分の髭を切りかねない(笑)。

佐山一郎

「耀司さんは、円くなった」と言われるのをなんとなく感じるわけですね。

山本耀司

感じますよ、円くなったのは。
正直に言うと、この世代のこの子とはマジに仕事しないだろうなという一種の諦めですから。

佐山一郎

独立しそうな顔というのは分かるものですか。

山本耀司

パタンナー色の強い人で独立する人は少ないですね。
生地の仕入れとか企画サイドの小物のデザイナーをやってた人とかは独立する人、多いですけどね。
顔見てて分かります。
まさかというどんでん返しもありますけどね。

(2)山本耀司愛用の裁ち鋏は、日本橋・木屋の團十郎。
鍛冶屋さんの打った総火づくりのもの。

 

この瞬間こそが永遠

ヨウジヤマモト404 1990年秋冬カタログ 山本耀司スケッチ 山本耀司 1990年秋冬
「Yohji Yamamoto」より

 

  • スケッチ
    山本耀司
    1990年秋冬
    「ロシアン・ドールズ」コレクション

佐山一郎

永久保存されている作品は、いま世界中のミュージアムにどのくらい?

山本耀司

僕は取っておかない主義で、捨てなさいってことでやっていたんですけど、いつの頃からか・・・・・(3)。

佐山一郎

作品に永遠性を求めないのですか。

山本耀司

美術館に入っちゃうと違いますからね。
この気持ちは仲間うちにも分かってもらえない。
僕の中では最初から割り切っていて、この瞬間こそが永遠であって、そこを割り切っておかないとファッションデザイナーをやっていられないです。
僕らの世代だと、婦人服を作ること自体が男子一生の仕事たるや、みたいなものもありましたから。
それもあって、既製服というものに自信持てるようになるまでちょっと時間がかかりましたね。
既製服ってのは、この瞬間、瞬間に何かを創るということ。
フランス語で、「Ici,maintenant!(ここで、いま!)」という凄い言葉があるけれど、僕は既製服をずっとやりながら、既製服のほうがオートクチュールより余程難しくて、レベルが高いと思っていた。

佐山一郎

そう言えば、有名なメゾンの主任デザイナーの交代劇があった1996-97年に「シャネルディオールへのオマージュ」(1997年春夏)を発表して大変な話題をさらいましたね(4)。

山本耀司

オートクチュールでいいんならできるだろうという意気込みでやりました。
1970年代、1980年代生まれはオートクチュールを知らないんですよ。
自分の中でタブー視して来たことが、「もういいや」って感じでどんどんノッてきて・・・・・。

(3)主な永久保存先に、財団法人京都服飾文化研究財団などがある。

(4)コレクションのテーマ創造のための精神活動は?という問いに山本はこう答える。
「町歩きはあまりしない。やっぱり書物が多いですかね。
書斎はなくて、自分が寝る部屋の床にダーッと置いてあるんです。
ヴィジュアルと言ってもあまりいいものを見ようと努力しないんで、テレビのプロ野球中継を見てる(笑)。
そういう感じで頭とカラダ休めているというか・・・・・。」

 

ファッション分からなければ、何も分からんでしょ

ヨウジヤマモト406 1997年秋冬カタログジャケットとスカート ヨウジヤマモト 1997年秋冬
「Yohji Yamamoto」より

 

  • フィットしたジャケットとスカート
    ヨウジヤマモト
    1997年秋冬
    撮影:Alfredo Albertone

佐山一郎

最大のタブーとしてきた着物を初めてモチーフにしたのが、1994-95年秋冬コレクションでしたね(5)。

山本耀司

そう、着物でショーをやったりとか。
あとで気が付いたんです。
あっ、これは何かを脱したんだぞ、と。
スケジュールにうんざりしていたんです。
自分がマンネリになっていた。
その前の90年代初め頃がいちばん何やっているか分からない状態。
納得もいってない。
とにかく飛行機に何十時間か乗る体力、筋力がなくなってきた。
体重も46、7キロに痩せてしまって、座っているのも辛い。
空手を始めたのはその頃で、最初辛くても、終わったあとに無条件に気持ちがいいんです。
山登りと一緒ですね。
坂口安吾を筑摩の全集で読み始めて、一通り全部読んじゃって、また戻ってということもしました(6)。

佐山一郎

格闘期が2度あったわけですね。

山本耀司

10代(12歳から18歳)と90年前後ですから40代の後半ですね(7)。
2つは意味合いが全然違いますけどね。
まあ、あと一仕事やらなきゃならないと思っています。
こういうふうに歩いたぞというのを文字じゃなく、眼で見せてあげたい。
あとファッションで重要なのは、芸術の親分だった「見るー聴く」以外の「さわる」という感覚です。
だからもうちょっとやんなきゃ駄目だな、と。

佐山一郎

起承転結なり序破急なりのエンディングを奏でるということですか。

山本耀司

エンディングは何事かの始まりでしょ。
最後の眺めは、どうやって負けてやろうかな、おおこうなりゃいい、これじゃ駄目だという〈負け方〉にかかわってくると思います。

佐山一郎

ファッションに対する第2軍的な扱いをいまだに感じますか。

山本耀司

ああ、それは感じますね。
事業家とかビジネスマンのタイプに「俺はファッションは分からんですから」と、分からないことを偉そうに言って来る人がいます。
日本の国とか政策に負けたんじゃなくて、つまりは日本人に負けたということか。
でも20世紀というのは、すべてのデザインがアートからデザインに移行して、そのすべてのデザインが流行現象になってファッション化されてしまったということなんです。
だからこっちとしては「ファッション分からなければ、何も分からんでしょ」って感じなんですけどね・・・・・。

(5)天竺ニットの十二単、絞り染め、手がき友禅の施されたコート類にパンツ、ブーツ、ソフト帽。
坂本龍馬にインスパイアされた洋服でも和服でもない「服」の提示が好評を博した。
山本のタブー意識は、西欧人に「お土産」としての日本を差し出すことを恥と考えていたからだという。
「着物は洋服のようにカラダの感覚の敏感な変化についてくる努力をやめちゃいましたからね。
浴衣で椅子に座るときの腰や膝の納まり具合などの細かいところだけ少し変えてみればいいと思うんですよ。
小物との関係もあるだろうから、女性の日常的な着物は男っぽくなるかもしれない。」

(6)山本耀司は、1999年に刊行された坂口安吾未亡人、坂口三千代著「ひとりという幸福」(メタローグ刊)に寄稿している。
三千代夫人は1994年11月2日逝去。享年71。
「頼まれたとき、これに極まる名誉はないと喜んで引き受けましたけど、素人だからかなりもがきました。
格好悪い文章書きたくないと思っちゃうんですよ。
だから原稿頼まれるのは辛い。
坂口安吾とその周りにいた人たちの日本語が、僕らの日本語の基本になっているような気がします。

(7) 1981年の衝撃のパリ・デビューは、アヴァンギャルドゆえに、絶賛と既得権を保守したい業界紙の酷評との両極に割れた。
世界各地のバイヤーがパリの山本のオフィスに押し寄せ、旧式エレベーターが故障した伝説が残っている。

2000年6月13日

山本耀司は、抽象的な事象をわかりやすく語るのがうまいファッションデザイナーです。

このインタビューを読み直して、改めて実感しました。

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