田山淳朗が山本耀司を語る

山本耀司の草創期を、田山淳朗が語ります。
一人のファッションデザイナーの姿が、くっきりと浮かび上がってきました。

 

田山淳朗

田山淳朗02田山淳朗
「FASHION NEWS」より

 

  • 田山淳朗
    撮影:Taneichi

田山淳朗

  • 1955年 熊本県に生まれる(1月30日)
  • 1975年 文化服装学院卒業
         第14回ハイファッション・ピエール・カルダン賞受賞
         「Y’s」社入社
  • 1978年 ヨウジヤマモト・ヨーロッパ設立のため渡仏
  • 1982年 帰国後、独立し「A.T」を発表
  • 1984年 東京コレクションに参加
  • 1986年 第10回毎日ファッション大賞新人賞・資生堂奨励賞受賞
  • 1989年 「アツロウ タヤマ」をスタート
  • 1991年 パリコレクションに参加
  • 1997年 第40回ファッション・エディターズ・クラブ賞、デザイナー賞受賞

田山淳朗のインタビューが載っている雑誌は、

  • ファッションニュース 161号3月号増刊
    2011年3月1日発行
    発行所 株式会社INFASパブリケーションズ

です。

それでは、以下に引用します。

田山淳朗がY’s社(その後のヨウジヤマモト社)に入社したのは1975年のことだ。

「マンションメーカーのひとつに就職した、という実感しかなかった」という。

ブランドの立ち上げ、東京コレクションでのデビュー、そしてパリ進出まで。

山本耀司の血気盛んな草創期に立ち会った田山淳朗に、当時のエピソードを語ってもらった。

 

危なっかしいくらい素直な人

ヨウジヤマモト376 1997年春夏カタログドレス ヨウジヤマモト 1997年春夏
「Yohji Yamamoto」より
ISBN2-84323-704-1

 

  • ドレスとつば広の帽子
    ヨウジヤマモト
    1997年春夏
    黄色のシルクサテン

    撮影:パオロ・ロベルシ

編集部

田山淳朗さんがヨウジヤマモト社に入社したのは、1975年でした。
その当時のことを教えてください。

田山淳朗

文化服装学院卒業と同時にY’s社(後のヨウジヤマモト社)に入社。
僕が20歳の時でした。
「Y’s」設立が72年でしたから、デビュー3年目の、まだマンションメーカーのひとつとい印象でした。
今と違って当時(の耀司さん)は駆け出しのデザイナーの一人だったわけですから、入社に際して、耀司さんのところの門を叩くという意識はもちろんありませんでした。
トイレに立つ時以外は、いつも社長(山本耀司)と一緒だった。
モノ作りにも他人に対しても、とにかくピュアな人だなぁ、というのが当時の印象。
ギラギラと凄みを備えるのはその後のことで、危なっかしいくらい素直な人という印象でした。

編集部

当時の「Y’s」はすでに既製服(プレタポルテ)の企画・生産を行なっていたのですか?

田山淳朗

西麻布の旧テレ朝通りに面したビルにオフィスを構えていた頃です。
耀司さんはお母様の冨美さんが営んでいた洋裁店から独立して起業したわけです。
だから、最初はセミオーダーと既製服との2つの仕事があったように記憶しています。
その後、プレタポルテ専業になりますが、当時は、フミ洋裁店のスタッフが「Y’s」のファーストサンプルを縫っていました。

 

パリモードに対する憧憬を口に

ヨウジヤマモト377 1995年秋冬カタログドレス ヨウジヤマモト 1995年秋冬
「Yohji Yamamoto」より

 

  • ドレス
    ヨウジヤマモト
    1995年秋冬
    黒いトリコットとウールギャバジン

    葉のモチーフを友禅染
    写真:マリ・クレール

編集部

1974年、現在の東京コレクションの前身である「TD6」が発足されました。
菊池武夫さん、山本寛斎さん、松田光弘さんら6名のデザイナーが結束しました。
耀司さん、川久保玲さんが参加したのは4年後の78年ですね。

田山淳朗

そうです。
75年から79年までの5年間は「Y’s」が国内で売り上げを伸ばした最初の時期でした。
DCブランドのブームと、伊勢丹、西武、パルコが東京のデザイナーズブランドを大きくフィーチャーしたこともあり、勢いがありました。
76年、青山ベルコモンズに初の直営店を出店、翌年、東京コレクションでデビュー、メンズブームに乗って79年には「Y’s for men」を開始。
ビジネスも軌道に乗ろうとしていた頃です。

編集部

田山さんが耀司さんからパリ行きを命じられたのはその頃ですね?

田山淳朗

77年頃のことです。
当時の僕は、企画の中心を担っていました。
「パリで勝負してみたいんだ」と耀司さんから相談されて、ヨウジヤマモト・ヨーロッパ設立のために渡仏したのが78年2月でした。
すでにパリでのショーも視野に入れていたようですが、オフィスのための不動産屋との折衝、ショー会場のロケハンも行いました。
もともと耀司さんはパリの街に憧れを持っていた。
「田山君、なんで一枚のTシャツなのに、こんなにも雰囲気が違うんだろう」と、パリモードに対する憧憬を口にしていました。

 

伝説の影には危なっかしいところがいっぱい

ヨウジヤマモト378 1985年春夏カタログシャツ ヨウジヤマモト 1985年春夏
「Yohji Yamamoto」より

 

  • 白い綿のシャツと黒いロングスカート
    ヨウジヤマモト
    1985年春夏
    撮影:Eddy Kohll

編集部

渡仏を決心された田山さんは、デザインの仕事に未練はなかったんですか?

田山淳朗

東京でデザイナーを目指す者にとって、当時のパリは今以上に夢の街でしたから、会社の経費で行ける、と思って即諾しました。
レアール地区に「ヨウジヤマモト パリ」の第1号店をオープンさせ、ブティック内で最初のフロアショー(1980-81年秋冬シーズン)を行い、パリ・コレクション本格デビュー(1981-82年秋冬シーズン)までこぎつけました。
パリのオフィスを任せてもらっていたけれど、当時はパリと日本を行き来していたわけです。
マンションメーカーから出発したブランドだから、デザイン、素材開発、仕入れ、生産、原価計算、そして店舗運営など、ブランドビジネスのあらゆる仕組みに参加できたことが僕の今につながっています。

編集部

思い出に残るエピソードは?

田山淳朗

グランジやアヴァンギャルド、エスニック、構築的なデザイン・・・・・。
「ヨウジヤマモト」は進化を遂げてきましたが、素材開発に費やすエネルギーはすごかった。
とにかく生地にはアグレッシブでした。
80年代初頭、2人でインドに生地を発注しに行ったんですが、納品された布は悲惨な出来だった。
パッチワークで表現するつもりが台無しで、結局、黒に染め直してデザインしたこともありました。
獣毛混ウールを交織するために、ラクダの毛を求めて北アフリカに旅したこともあった。
ブランドの立ち上げ、東京での成功、そしてパリ進出まで。
耀司さんの最もエネルギッシュな草創期に立ち会ってきました。
美談や伝説の影には、危なっかしいところもたくさんある。
ここでは語れないオフレコがいっぱいね(笑)。
凡人とどこかの回路が違うというか。
それがデザイナーとしての耀司さんの魅力なんじゃないですか?

 

「クリエイターが山本耀司を語る」は、以下も参考にしてください。