熊谷登喜夫の名前を見ると私は、「天才」と付けたくなってしまいます。
今回は、熊谷登喜夫がデザインした靴を中心に見ていきます。
熊谷登喜夫
靴 熊谷登喜夫 1984年ころ
「FASHION A History from the 18th to the 20th Century」より
ISBN978-3-8365-5719-1
- 靴
熊谷登喜夫
1984年ころ
赤と白の樹脂
熊谷登喜夫
- 1947年 宮城県仙台市に生まれる(8月9日)
- 1966年 文化服装学院に入学
- 1968年 第24回装苑賞を受賞
- 1970年 文化服装学院を卒業
渡仏 - 1971年 ドロテ・ビス系のデザイン・企画会社「コア・アンド・コア」に入社
- 1972年 独立
- 1980年 A.B.C.デザインを設立
- 1981年 パリで靴のブティックを開店
- 1983年 イトキンからレディースを発表
- 1985年 イトキンからメンズを発表
- 1987年 死去(10月25日)
フリーランスのファッションデザイナー
パンプス 熊谷登喜夫 1984年ころ
「FASHION A History from the 18th to the 20th Century」より
- パンプス「食べる靴−すき焼き」
熊谷登喜夫
1984年ころ
赤と白の樹脂
熊谷登喜夫は文化服装学院を卒業した後、パリに渡りました。
そしてフリーランスのファッションデザイナーとして、
- カステルバジャック社
- フィオルッチ社(プレタポルテ、アクセサリー)
- ピエール・ダルビー社
- ロディア社(ニットデザイン)
- バディロ社
- イブ・サンローラン社(靴)
- ビニ社(テキスタイル)
- ミックス・アンド・マッチ(プレタポルテ)
- アルファ・キュービック(靴)
などのデザインを手がけました。
熊谷登喜夫は特に、靴のデザインで高い評価を得ました。
TOKIO by DOMON
下駄 熊谷登喜夫 1984年ころ
「FASHION A History from the 18th to the 20th Century」より
- 下駄「赤飯」
熊谷登喜夫
1984年ころ
樹脂
かつて熊谷登喜夫は、ジュングループの「TOKIO by DOMON」というブランドでメンズウェアをデザインしていました。
1980年に熊谷登喜夫は、パリにA.B.C.デザインというアトリエを設立しました。
そして1980年6月に、A.B.C.デザインとジュングループが「TOKIO by DOMON」の契約を結びました。
1980年秋冬コレクション「ザ・ポリス」で、「DOMON」と「 TOKIO by DOMON」のファッションショーが共催されました。
1983年ころA.B.C.デザインの経営が悪化し、熊谷登喜夫は株式会社イトキンと契約しました。
ダイアナ妃の初来日
パンプス トキオ・クマガイ 1984年ころ
「FASHION A History from the 18th to 20th Century」より
- パンプス「アイスクリーム・シューズ」
トキオ・クマガイ
1984年ころ
樹脂
1986年にダイアナ妃が初来日したとき、小池千枝先生はとても喜びました。
このときダイアナ妃は、
- ケンゾー(高田賢三)のドレス
- トキオクマガイ(熊谷登喜夫)の靴
を着用していました。
小池千枝先生は、「ヨーロッパの王室に、日本のファッションデザイナーがやっと認めてもらえた。嬉しかった」と言っていました。
小池千枝先生のこの言葉を、私は本で読みました。
その後私はこの話を、小池千枝先生から直にお聞きしたと記憶しています。
靴のデザイン
靴 熊谷登喜夫 1984年ころ
「FASHION A History from the 18th to 20th Century」より
- 靴
熊谷登喜夫
1984年ころ
黒いスエード
平ゴム、リボン、リング、皮革のアップリケ
動物シリーズの靴は、1983年秋冬から1986年春夏までたびたび登場しました。
テーブルクロスにこぼしたワインのしみが「ネズミの形のようでかわいかった」ことにヒントを得て、ネズミの靴が作られました。
旧来の靴というカテゴリーに捕らわれない独創的なデザインによって、熊谷登喜夫は靴を履く楽しさを提案しました。
発想の原点は熊谷登喜夫自身の生活の中にあり、
- 絵画
- 写真
- 工芸品
- 人の言葉
からイメージを広げ、靴を一つのオブジェとしてデザインしました。
まとめ
第24回装苑賞受賞作品 熊谷登喜夫 1968年
「装苑 2013年8月号」より
- 第24回装苑賞受賞作品
熊谷登喜夫
1968年
熊谷登喜夫が装苑賞を受賞したとき、山本耀司は次点でした。
この一事だけを見ても、熊谷登喜夫は天才だと思ってしまいます。
ただ残念なことに、熊谷登喜夫の服の写真が私の手元にはありません。
私が大学に入学した年に、熊谷登喜夫は亡くなってしまいました。
大学のクラスの中でも、熊谷登喜夫の死は話題になりました。
1987年は大勢の若者が、ファッションデザイナーの名前を知っていた時代でした。