1991年4月10日、私は文化服装学院ファション工科専攻科の教室の前にいました。
文化服装学院
小池千枝先生 人形ギャラリー兼自宅にて
「世界の民族人形」小池千枝コレクション あとがきより
担任の先生がやってきて、
「小池先生から、話は聞いていますよ。」
と私を教室に入れてくださいました。
その日の放課後、小池千枝先生がファッション工科専攻科の教室に来てくださり、
「やっていけそう?」
と私に声をかけてくださいました。
ヌードボディ
私のアパートにはミシンなかったので、
「課題をこなすのが大変でしょう。」
ということで小池千枝先生が、教室に私専用のミシンを用意してくださいました。
また卒業生が残していったボディーを、私にくださいました。
このボディは、今でも自宅で使っています。
小池千枝先生がボディについて、いつも学生に言っていることがありました。
「クリエーティブな服を作るためには、ゆとり入りのボディを使ってはダメです。ヌードボディに自分の欲しいゆとりを作れるようにならないといけません。」
学生時代はヌードボディしか使わなかったので、小池千枝先生の言葉の意味がよくわかりませんでした。
会社員となり、ゆとり入りのボディを使って初めて、小池千枝先生の言葉の意味が実感できるようになりました。
ファッション工科専攻科
1989年春夏パリコレクションの前夜、山本耀司を訪ねた小池千枝先生
「小池千枝ファッションの道」より
ISBN4-579-30334-2
文化服装学院は通常、2年間か3年間で卒業します。
3年間学んだ学生がさらに1年間学ぶクラスが、ファッション工科専攻科でした。
学生数は私を含め、12名でした。
それまでの専攻も、
- デザイン
- 技術
- テキスタイル
- スタイリスト
と様々な経験を積んできた学生が、同級生となりました。
ファッション工科専攻科の担任は、小池千枝先生でした。
ただ、小池千枝先生は文化服装学院の学院長ですので、毎日の授業はできません。
そこで小池千枝先生がとても信頼していた先生が担任として、毎日の授業を担当してくださいました。
副担任の先生も一人いて、とても恵まれた環境でした。
いろいろな分野を学んできた学生と、服作りのスペシャリストな先生方に囲まれ、とても刺激的な一年間を送ることになりました。
ananの広告
1980年代の後半、文化服装学院はマガジンハウスの雑誌「anan」に広告を出していました。
小池千枝先生が、文化服装学院の卒業生を訪ね対談するという内容でした。
- 有名なファッションデザイナー
- 新しいブランドを立ち上げたばかりのファッションデザイナー
が登場し、私は毎回大変楽しみにしていました。
日本の数多くのファッションデザイナーを輩出した文化服装学院で、小池千枝先生に学べることがとても嬉しく、私はワクワクした気持ちをおさえることができませんでした。
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