ジャン・フィリップ・ウォルトは、シャルル・フレデリック・ウォルトの次男です。
ジャン・フィリップ・ウォルトは、父親譲りに服作りが下手なようです。
ジャン・フィリップ・ウォルト
イブニング・ドレス ジャン・フィリップ・ウォルト 1901年
「文化学園服飾博物館コレクション ヨーロピアン・モード」より
- イブニング・ドレス
ジャン・フィリップ・ウォルト
1901年
リボンとつる花を織り出した生地
プリンセス・ラインを用いた体に沿ったシルエット
ジャン・フィリップ・ウォルト(Jean Philippe Worth)
- 1856年 フランスのパリに生まれる(7月25日)
- 1874年 ビジネスに参加しはじめる
- 1895年 シャルル・フレデリック・ウォルトの後を継いでデザインをする
- 1901年 ポール・ポワレがメゾンに入る(-1903年)
- 1910年 引退
- 1926年 死去(7月)
ジャン・フィリップ・ウォルトとポール・ポワレ
オートモービル・スーツ ジャン・フィリップ・ウォルト 1905-10年ころ
「文化学園服飾博物館コレクション ヨーロピアン・モード」より
- オートモービル・スーツ
ジャン・フィリップ・ウォルト
1905-10年ころ
スポーティーデザイン性のあるドライビング・ウェアがオートクチュールのメゾンから発表された
1895年に、シャルル・フレデリック・ウォルトが亡くなりました。
その後のウォルト店は、
- 長男のガストン・ウォルト(1853-1924)が経営
- 次男のジャン・フィリップ・ウォルトがデザイン
を担当しました。
ウォルト店ではカジュアルな服を作る人材として、1901年にポール・ポワレを採用しました。
ジャン・フィリップ・ウォルトは、
- 簡素
- 実用的
なドレスには興味がありませんでした。
ジャン・フィリップ・ウォルトは、ポール・ポワレの
- テーラードスーツを「わらじ虫」
- ドレスを「ふきん」
などとさげすんでいました。
ポール・ポワレも、ジャン・フィリップ・ウォルトが作る豪華なドレスを冷めた目で見ていました。
ジャン・フィリップ・ウォルトとジャポニスム
デイ・ドレス ジャン・フィリップ・ウォルト 1910年ころ
「文化学園服飾博物館コレクション ヨーロピアン・モード」より
- デイ・ドレス
ジャン・フィリップ・ウォルト
1910年ころ
縞柄のきものを思わせるデザイン
ジャポニスムの影響が色濃く見られる
ウォルト店はメゾンの創立以来、流行のジャポニスムに早くから目を向けていました。
1907年ころから1913年ころにかけて、パリのファッションは「きもの」に触発された作品を次々に発表しました。
「キモノ」という単語以外にも、
- 「日本風フォルム(forme japonaise)」
- 「キモノ・スリーブ(manche kimono,manche japonaise)」
といった言葉が女性誌の紙面を踊りました。
この時代には、
- 打掛風のシルエットのコート
- きもの型ドレス
- きもの風の衿
- 帯のようなサッシュ
などが流行しました。
まとめ
コート ジャン・フィリップ・ウォルト 1910年ころ
「FASHION A History from the 18th to the 20th Century」より
ISBN978-3-8365-5719-1
- コート
ウォルト(ジャン・フィリップ・ウォルト)
1910年ころ
深紅のベルベット
抜き衣紋風の衿
きもの風の打ち合わせ
背面にドレープ、ビーズのタッセル飾り
私は、
- ジャン・フィリップ・ウォルト(1856年生まれ1895年デビュー)
- ポール・ポワレ(1879年生まれ1903年デビュー)
- シャネル(1883年生まれ1915年デビュー)
の3人に注目してみました。
- ジャン・フィリップ・ウォルトとポール・ポワレ
- ポール・ポワレとシャネル
は、お互いに価値観を否定し合っています。
20世紀の初めには新しいファッションデザイナーの登場によって、10年ごとに価値観が更新されています。
価値観が更新されていくことが、私はとても大切なことだと思うのです。
それにしても、ジャン・フィリップ・ウォルトは服作りが下手でした。
そして、ジャン・フィリップ・ウォルトは頭も固かったようです。
ジャン・フィリップ・ウォルトは永遠に、時代の脇役的なファッションデザイナーです。